生きることに悩んでいた自分に伝えたいこと

随筆
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何のために生きるのか。
なぜ生きているのだろうか…。

若かった頃、思い悩んだことがありました。

今なら、その時の「私」に、こんなことを伝えたい。

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人生の意味は私自身が創出するもの

日常が一変した。遠い昔、それは「突然」やってきた。

「私」は「操り人形」であるという覚醒
「私」は、誰かの期待に応えるためだけに生きてきたのではないか。
「良い子」を「演じて」きただけなのではないだろうか。

「私」が「自分」としてしたいことは、なんなのだろう、と。

陰鬱で暗澹たる絶望的な感覚とでもいうのだろうか。
「私」が「自分」であることの意味が崩壊した瞬間だった。

その後、しばらく何もしない、できない日々が続いた。
生きる気力がなくなってしまった「私」は自宅に「引きこもり」時間を過ごしていた。

紆余曲折あり、

それから「私」は「自分」を取り戻すために「生きることの意味」を探し始めた。

そのころ学生だった「私」は、アルバイトをしたり、一人旅に出たり、読書をしたり…と。

しかし、ご想像のとおり、生きることの意味は、どこにもなかった。

生きることの意味は、どこかにあるのではなく、誰かが用意してくれるものでもなく、
「私」が「創り出し」て「私に与える」ものであることにたどり着いた。

目の前のコーヒーカップは、実際に手で持つことができるが、
生きることの意味は手で持つことのできない「意味」である。
それが「実体として」「ある」わけがないのである。

『人生の意味は、あなたが自分自身に与えるもの』
(「嫌われる勇気」岸見一郎・古賀史健 ダイヤモンド社  から引用させていただきました。
 以下『』内は、同書からの引用です。)
なのです。

 

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私は私の人生を生きればいい

前出の「嫌われる勇気」に、YouTubeの本要約紹介チャンネルで出会い感銘を受け、実際に書物を購入し読ませていただき、改めて感銘を受けました。

学生時代、生きることに迷い、思い悩んでいた「私」は、心理学を勉強すれば、そういったことが解決できるのではないかと考え、心理学関係の講義を選択し受講したり、書物を購入し独学したりしていたものでした。

その時に、精神分析学や臨床心理学、心理臨床などを学び、フロイト、ユング、アドラーの名前も出てきていましたが、私の力不足もあり、学説・理論の表面をなぞっただけだったようです。

すっきりとした解決はありませんでした。

今になって初めて、この著書(「嫌われる勇気」岸見一郎・古賀史健 ダイヤモンド社)を通し、
アドラーの思想・考え方が、少しでも分かったような気がしています。

『すべての悩みは、対人関係の悩みである』
『自由とは他者から嫌われること』
『他者から承認を求めることを否定』
『われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく「主観的な解釈」』
『自分の人生における主人公は「わたし」である。しかし、「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部』
など。

『原因論』ではなく『目的論』での見方。
『見かけの因果律』『課題の分離』『勇気づけ』『共同体感覚』などなど。

これらの考え方は、私の中のパラダイムの変換となりました。

ここから勇気をもらい、対人関係の視点や人生に対する姿勢が
変わりました。

人間関係や人生について、深刻に思い悩むことがなくなりました。
気持ちは穏やかで楽になりました。

そして、私は、この社会の一員として、私の思うように生きるという意思と意志を
持てるようになったと感じています。

◇「嫌われる勇気」を詳しく見てみたいと思われた方は、リンクを貼っておきましたので、どうぞ◇